人の作品読みてーなーってなるのはきまって小説の推敲終わり間際。何千回と自分の吐いたゲロを推敲しているうちそれを浄化するかのごとく読書熱が訪れる。
出版した直後などは読書に一番最適な時だ。
極限の緊張で何週間と推敲してきただけあってこの時ばかりは誰かの書いた文章でさえ一字一句止まってみえる。そして自分より筆致が上の文章を読むとその差違に気付くことが出来いわゆる次のステップにいけるわけだ。
いま俺が飛び越えたい壁があって、たとえば1、2、3の動作があったとする。いままでは筆致がないから1、2、3のすべての動作を書かざる得なかった。これを1、3の動作、つまり2を省略して、かつ2の動作がそこにあったかのように見せる技術だ。
この技はシーンを飛び越える時にも使われる。
うまい作家さんはこうした技をたびたび使う。そして俺はう、っと思って立ち止まる。
こうした技は言葉で説明するのが難しく、いわゆる小説ハウツーでは誰も触れない。
どちらかと言えば、カット割りという技術で脚本関係の本でそれに代わる解説をしている場合がある。
小説の現場は書いて読むしか方法がない。
読解力をテストする上で何回も同じ小説を読む。
俺は官能小説でお気に入りが二冊ある。純文学で二冊。エッセイが二冊。
小説を一冊主版するたびに見えなかった文章が見えるようになってくる。おそらく、こうした感覚はいくら読書だけしてみても身に付かないものだろう。
俺が映画狂いだった頃、ビデオやDVDのパッケージを見ただけでアタリかハズレの目利きができるようになった。
小説でも似たことができる。
小説のページや原稿には面構えみたいなものがある。パッとページを開いたときによい小説とはそのページの面構えが綺麗なのだ。
百戦錬磨の編集者などは読まなくてもその小説の価値がわかるんじゃないかな。
では最後に――、創作の源泉は怒りだ。それも誠実な怒り。誠実な汗にしかメッセージは宿らない。
じゃあまたね!
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